第29回 記憶の検証
第一回で出てきたSP盤です。左側のほうが普通だと思いますが、右側のように大きいサイズもあります。
直径を計ってみたら、左が24.8センチ、右が29.6センチでした。
わたしは六歳まで二件長屋に住んでました。隣の部屋から誰かが出てきた覚えがありました。廊下を歩いていくと、途中から行き止まりのような雰囲気で、開かずの間というかんじでしたが、そのまま向こう側へ行けたような気がしました。
しかし二軒長屋は外に出ないと隣の部屋へ行けません。部屋と部屋は壁で隔てられていて、通路はないです。わたしの記憶違いなのだろうかと思いました。それともほんとに不可解な存在がいて、壁抜けをしたのだろうか、と戦慄しました。しかし母の話で謎が解けました。事実はいたってシンプルでした。
もともと隣への通路はなかったのですが、母の話では、押入れの一部をぶち抜いて、廊下を張って通路を作ったということです。それで向こう側と行き来ができたわけで、妖怪が出てきたわけではなかったのです。わたしは納得するとともに、少々がっかりしました。
記憶は正しくても、事実認識が正しくないと、記憶違いや思い違いで片付けてしまう場合があるので、慎重にしたいものです。
これも第一回で出ましたソノシート盤です。薄くてぺニャぺニャです。当時持っていた盤はなくなってしまったので、その代わりと言っちゃなんですが。
これは青色ですが、赤色が普通だったと思います。15年ほど前に古本屋で入手しました。偶然ですが、世界恋愛名詩集という本を買ったところ、巻末の付録に付いてました。朗読が収録されてます。アポリネールのミラボー橋。1967年初版です。当時の価格が480円と本に印刷されています。古本屋で100円でした。
いつ、どこで、誰がというのが記録をとる基本です。幼少期の記憶でこの三点がはっきりしてるものは誰しも少ないと思います。
わたしの場合、幼稚園の一年目、五歳のときですが、はっきり覚えているのは、幼稚園の教室で、わたしが仲良くしていた子(名前も覚えています)が別の子を泣かせたことで、泣かされた子の方が体が大きいのに凄い勢いで泣きだしたところです。
そのときの場所が、園内の東側にある、桜組という一年目の教室だったので、五歳のときだと分かるのです。この記憶は半世紀たった今でもはっきりしています。衝撃的だったのでしょうね。
幼稚園のときに使っていた弁当箱です。内側もぜんぜん錆びてません。この薄緑色がわたしは落ち着きます。小学生になってからも遠足などで使っていたと思います。わたしの個人的な最も古い持ち物です。
自分という記憶はくせものです。
子供の頃を思い出すと、あるはずが無いことなのに、自分の背中や全身が見えてしまうという話を耳にします。
自分がどんな姿をしてるのか、目だけで見て確認しますと、ほとんど首から下の前面しか見えないことが分かります。じっと見ていると何やら変なものが動いているような気がしてくるのですが、これ自分の手足ですね。でも四本足ともいえそうです。実際に見えている自分はすごく変なかんじです。
自分よりも周囲にあったものを意識するとよいと思います。例えばお風呂場まで歩いていくという記憶があるなら、まず自分がいる部屋を意識して、そこから頭のなかで風呂場まで歩いてみれば、見えるのは自分の背中や頭ではないはずです。
人間は実際には、このようにしか自分を見ることができないまま、ああだこうだと考えたり悩んだりしてる、変な生き物です。わたしの頭はどこにあるのだろう?と思い込んでみると、不思議な気分になれます。
台風が来ると、庭が水溜りになり、長靴を履いて遊んでいました。なんであんなに水が溜まったのか、水の流れがよくなかったからのようです。しかし子供は気楽なもので、台風が来ると長靴で外で遊べるので嬉しいというかんじでした。長靴に泥水が入っても平気でした。
外便所の家でこんな事になれば大変なわけで、つまり、アレが出てしまい、水にプカプカ浮いてるわけです。わが家はたぶん大丈夫だったと思いたいのですが、うむむむむむ、何も知らないというのは強いです。
第28回 二軒長屋
祖父の遺品。謄写版の紙だと思う。
わたしが六歳まで暮らしていたのは二軒長屋でした。ここは母の生家でもありました。かつてはこの付近には二軒長屋の棟が立ち並んでいたということです。
戦後になるまで、内務省の職員だった祖父の事務所がすぐ近くにあったので、母は子供の頃から遊びがてら出入りをし、仕事の様子を見ており、それによると図面をかいたり地区の測量をしたり、百葉箱で温度を測ったり、いろいろやっていたということです。
事務所の前には駅があり、裏には内務省の工場があり、そこで働く人たちのために建てられた二軒長屋でした。祖父母は派遣されてきた当初は、地元で世話をしてくれるの人の家に間借りしていて、二軒長屋ができるとそこへ移り、住居としていました。
結局そのまま居ついてしまい、もちろん母と母の兄と姉たちもここで生まれ育ち、戦後になって事務所と工場が廃棄された後も、そのまま二軒長屋が実家のようになってしまいました。やがて結婚した母が祖父母と暮らすことになって、わたしが六歳の頃まで住居として使っていました。
祖父の残したものは数十枚の測量図とこの二軒長屋の図である。
何かの手続きで役所へ提出するために書いたものらしい。
話が戻りますが、祖父は青写真を焼いていて、事務所にそういう一室があったようなんですが、母が見たところによると、機械の図面みたいだったそうです。
すぐ裏に工場があるのですから、機械の図面があってもおかしくないのですが、実際に何をつくっていたのかは分かりません。工場と事務所と駅が並んであったのですから、作ったものをどこかへ運んだと想像できますが、資料が残っていないので分かりません。
公務員なので守秘義務があり、戦中の文書は敗戦の折に処分してしまったのかもしれませんが、紙そのものが貴重だと思われていたようで、地元の人たちが欲しがったので、やってしまったものも多かったようです。不要になった青写真などはそれですべてなくなってしまったということです。
工場が閉鎖した後も、鉄くずが残っていたので、それを拾いに行った人たちが結構いたようです。結局お金にしたんでしょう。戦後はそんなかんじで始まったのだと思います。現在うっかりそういうことをすると逮捕されそうです。
孫としては、いい仕事してるね、と言いいたいものです。
戦後、祖父母はそのまま二軒長屋に住み続け、母が父と結婚して、ここへ入りました。
税金というかたちで家賃を払っていたのですが、しだいに建物が崩壊してきたので、わたしが生まれた頃はもう家賃も払う必要もなかったようです。
戦前は駅もあり、長屋の住人たちで賑やかだったそうですが、最後まで残ったのはうちの家族だけで、ほかの人たちはみな出て行ってしまったそうです。
昭和35年頃のわが家。当時ですでに築四十数年は経っている。
西側の部屋が写っているが、生活は東側でしていた。
この三年ほど前に祖父は亡くなっている。
わが家が引越してから(すぐ裏ですが)、二軒長屋は物置になり、この先二十年の余命を得ることになるのですが、今はもう跡形もありません。地所の変更が行なわれたことによるものです。今思うと、大げさですが、歴史の生き証人のような建物だったのだと気づかされます。
第27回 魔法では家を造れません
ビートルズが来日した1966年の12月から、魔法使いサリーの放送が始まりました。
その頃ちょうど両親が家を新築したのですが、サリーちゃんがオープニングでするように、木の切り株から家を造ってしまうわけにはいきませんでした。魔法が使えないので近所の大工さんに頼みました。それまで住んでいた長屋の裏に建てました。法律的に土地の所有が完全ではなかったのですが、ずっと後になってからの手続きですみました。
まだ柱で骨組みを建てただけのとき、わたしは物珍しさに、子供ながら探索したものです。はっきり覚えているのは、トイレになった場所です。下がコンクリートで固められているのが印象的でした。
コンクリート部分から外への出口を作り、畑へ流して肥やしにすることも可能でしょう。(西洋のどこかの国がそうしてるのをテレビで見たことがある)。家と畑に高低をつければいいわけです。秘境で自給自足生活をしなければならないときは役にたちそうです。環境面での問題があると思うので、あくまでもサバイバルとして考えてください。以上が汲み取り式トイレの構造でした。
昼間は大工さんが仕事をしてるので、夕方誰もいなくなってからわたしは裏へ行って遊んでました。柱の骨組みだけの白っぽい状態がなぜか鮮烈に記憶に焼きついていて、あれが本当の姿なんだという感じです。
気が付いたら壁ができて屋根ができて家は完成して、すぐ裏なんですが、わが家は引越したわけです。子供だから事情がよく分からないので、とくになにも感じなかったと思います。
でもあの骨組みの状態のときに、中に入って、不思議な空間の広がりに戯れたのが、ふつうの家になってしまったときは、なんだかちょっとアレ?と思いました。魔法が覚めたみたいでした。
第26回 一家『いっけ』は続く
『一家』と書いて、普通は、『いっか』と読みます。
清水一家の次郎長親分、というかんじですね。
父、母、兄がいて、自分がいる、一家団欒、というかんじですね。
しかし例えば、『山本家』は『やまもとか』ではなく、『やまもとけ』と読みます。
親族に関する言葉で、『いっけ』というものがあるのですが、ここでは『一家』と書いて、『いっけ』と読むことにします。『山本一家』なら、『やまもといっけ』です。
一家『いっけ』は方言ではありませんが、あまり浸透しなかった言葉みたいなので、現在各地でどのように使われているのかよく分かりません。以下は、わたしが住む近所での様子をいくらかまとめてみたものです。
『いっけ』は、『いっか』の訛った言い方ではありません。
『いっけ』は、『いっか』とは意味が全然違います。『いっけ』は家の集まりで、『いっか』は人の集まりです。
簡単に言えば、親族の家がいくつか集まって作ったグループです。
現在では、かなり年代を遡って何代も前から続いている家同士になっているでしょう。『いっけ』という仕組みが古いのですから。
一家『いっけ』は一族や一門の類語とされていますが、あまり知られていません。一族や一門のように、歴史本や映画のなかにも出てきません。しかし『いっけ』は、A子さんちは山本一家『いっけ』なんでしょう?というぐあいに日常会話で普通に使える言葉です。
うちの近所で『いっけ』というのは、古くから墓がある家同士の付き合いという印象があります。
『いっけ』としてまとまっている家が近所に五軒あるのですが、そのひとつの家の庭先に五軒の墓が並んでいます。「山本一家『いっけ』の墓はあそこだ」というかんじです。通り道から見えるので、子供のころ暗くなってから通ると、お化けが出るとかで、怖がったものでした。
過去のどこかの時点で、この五軒がグループを作り、『いっけ』として、そのまま続いているわけです。現代的感覚からすれば、親戚というにはかなり薄くなっているでしょうが、縁を切るにはかなりの決断が必要になると思います。
普通の親戚の場合は、あまりに遠縁になってくると、年会に呼ばれる声が掛からなくなる時がきて、そろそろ分かれて別々になりましょうという合図だと解釈するようです。母の知人で90歳近い人が、そのようなことがあったとかで、これはそろそろ縁切りってことかな、と話してるのを聞いたことがあります。縁切りは絶縁と違って、必ずしも悪い意味とは思われていないようです。そうでもしないと親族がどんどん増えて、親戚付き合いが不可能になるからでしょう。
しかしこの五軒の場合は、『いっけ』に所属する家の数が固定されているので、増えるということはありません。『いっけ』の墓は五つだけです。『いっけ』の付き合いが次々と増えて大変になるということはないです。
特に共同して何かをするというわけでもなく、普通に近所付き合いをしている程度です。『いっけ』としての義理を果たすことはあっても、それだけのことです。『いっけ』のそれぞれの家はすでに、それぞれの婚姻関係を経てきてるので、ふだん親戚関係といえばそれぞれ別々にあるわけです。
なぜ『いっけ』が忘れ去られること無く続いてきたかですが。
墓が同じ場所にあるので、強制力のようなものが働くのではないかと思います。隣の住人を無視できないのと同じです。
それから、『いっけ』の構成単位が家だということです。家は人と違って死にません。誰かが住んでさえいれば『いっけ』のひとつでありつづけます。
たいしたことをしなくても、今までどおりにしていれば、『いっけ』は増えもせず減りもせず、そのままなわけです。
こんなかんじでしょうか。
五軒それぞれの家から分かれた人たちにとっては、『いっけ』は本家の集まりかもしれません。とりあえず自分のルーツが形として残っているということだと思います。
他にも近所に『いっけ』とよばれてる家々はあります。そちらは地元の寺の檀家さんですが、そこの家のお祖母ちゃんが掃除をしていたら、掛け軸みたいな系図が出てきて、先祖に僧侶がいるので寺から出た家系だったと言ってました。たしかに同姓の家が寺に隣接して並んでいて、墓は本堂の近くにかたまってあります。
同姓の墓がかたまってあるのは、古ければよく見かける光景ですが、そういうものがすべて『いっけ』だというわけでもないようです。地元で『いっけ』でとおっている家はあっても、そのはっきりした理由はわかりません。
一族や一門は、氏、姓、名字などで区別されると思いますが、『いっけ』にもそういうはっきりした規則があるかどうかは分かりません。地域や宗派によっても違いはありそうだし、だから方言みたいなものではあるかもしれません。
とりあえずわたしの近所では墓という具体的なもので続いているということでした。
第25回 電気のない世界で生きる場合
第24回 食べ物にはどれだけの真実が必要か
幼稚園の同級生の家が市街で魚屋を営んでいて、車でわが家のすぐそばまで売りにきていたので、母が買いにいくとわたしも見に行ってました。
はっきり覚えていて、頻繁に食べていたのは、白子です。この魚屋さんで買っていました。白子汁にして食べてました。煮干か鰹節かのダシで醤油を垂らしただけのお汁です。
白子は鱈子ほどには知られていないみたいで、たまたま食べる機会があっても自分には合わなかったという人が結構いるみたいです。わたしにすれば、甘くないプリンという感じです。
質が良くないと、変な味に感じるかもしれないので、食べてみたい人は、できれば魚屋さんで、新鮮なものを選ぶとよいです。
ビートルズの来日をファンの人たちがとても楽しみにしていたように、当時わたしは味噌おでんの車が来るのが楽しみでした。田楽味噌のことです。こんにゃく味噌ともいいますか。三角形に切ってあるのが串に刺さってました。
夕方薄暗くなると、わが家の庭先の向こう側の道に車が止まり、味噌おでんを母に買ってもらって庭で食べるのです。
幼き日の記憶のなんだかんだという話がありますが、わたしにとっては、この味噌おでんがまさしくそれなのです。ついでにヒグラシでも鳴いていれば、もっと絵になりそうです。
でもわたしの覚えでは、ただ暗くて、怖くはないけどほのぼのした雰囲気とはちょっと違ってました。昔は家の回りに大木がけっこう生えていたから、夕方は実際かなり暗かったんでしょう。
そんなわけで、ずいぶん長いあいだ、小学校低学年の頃までは、おでんというのはこの味噌こんにゃくのことだと思ってました。
どうも違うようだと気づいたのは、漫画本のなかに出てくるおでんは、三角形のほかに、丸いものと、四角いものが串に刺さっていたからです。
味噌おでんを売りにきていた車は結局、何屋さんだったのか、母に尋ねてもよく分かりません。まだボンカレーが発売される前の話です。
あの当時、家族で市街へ出かけると、肉屋でコロッケとハムカツを晩御飯のおかずに買って帰りました。そんなふうに覚えてるのは、たぶんイベントみたいになってたからだと思います。やはり油で揚げたものは魅力的だったのでしょう。
最近何十年ぶりにハムカツを買って食べました。真っ先に感じたのは、ハムカツのハムってこんなに厚かったっけ?ということでした。昔はいちばん薄いハムを一枚揚げただけだったと思うのですが。幼児だったから、あれでじゅうぶんでした。
私見ですが、ハムカツのハムは薄いからいいんです。お煎餅みたいに食べられるから。
カツといえばハムカツのことでした。やはり長い間そう思っていました。メンチカツは、案外新しい食べ物というイメージがわたしにはあり、ハンバーグみたいなものです。
とんかつの存在は、おでん同様、漫画本で知ったのですが、おでんと違ってビジュアル化しにくいので、どういう食べ物なのかよく分かりませんでした。でもとんかつを食べられるのは特別なことなんだとされているのは分かりました。
とんかつが、いつその姿を現したのかわたしは知りません。あまりにも長い間、実物を見たことがなかったので、謎の食べ物でした。というか子供の頃に食べた記憶がないです。もしかすると札幌五輪の頃に見たかもしれませんが、よく分からない。
とんかつが豊かさの象徴みたいに扱われていた時期があったように思います。
「今夜はとんかつだ。わーい!」では足りないくらいだったような気がする。
わたしにとって寿司といえば、カッパ巻きとかんぴょう巻きとお稲荷さんのことでした。これの他に別の寿司があるらしいことに気づいたのは、小学校四年生のとき、大阪万博のあった年です。
押し寿司という言葉を耳にしたので、母に尋ねてみましたが、なんだかあやふやな答えでした。でもどうでもよかったんです。見たことがないものを食べたいとは思わなかったから。
現在は、まぐろのことになると、報道番組でやたら取り上げられますが、昔から日本人みんながマグロを愛していたみたいに聞こえます。わたしはまぐろよりほっけの方が好きなんですが、回転寿司にあるのでしょうか。
今回、必ずしも金がないから買えなかったという話ではありません。
食生活の違いもあります。
第23回 墓番という慣習
祖父が亡くなったとき、真っ先に問題になったのは、どこに埋葬するかということでした。祖父は紀伊半島出身だったので、あちらに埋葬するのは遠くて無理だから、近場でなんとかするしかありませんでした。
幸いにして懇意にしていた方が地元のお寺に近しい家だったので、仲介してもらい、墓の敷地を買えました。竹薮だったところを伐採して敷地にしたようです。当時の物価を考えてみても、かなり安値だったようです。
次に家からお寺までどうやって遺体を運ぶのかということでした。歩いて五分くらいの距離ですが、当時は車がなかったし、リヤカーだって農家の家でなければ持ってません。
部屋で寝かせてある遺体を棺桶に入れて、棺おけごと運ぶのですから、大人の男が数人いなければ無理なわけです。まさか遺体だけを担いで持っていくわけにはいきませんから。
それに父は仕事の関係で長期出張が多くて、家には母と祖母しかいませんでした。わたしはまだ生まれてなかったし、伯父たちは全員近くには住んでませんでした。
生粋の地元の家であれば、組合の助けで自動的に事がすすむのですが、 ここでいう組合は自治体の班とは別もので、埋葬の組合です。うちはそれに入っていなかったので、規格外のような立場にありました。
結局個人的に懇意にしていた人たちの世話になったということです。リヤカーを貸してもらったり、運ぶのを手伝ってもらったりです。
それから棺桶に遺体を入れるのがまた一苦労で、寝かせてあったものを棺桶にいれるときはすでに死後硬直が進んでいるので、うまく入らないようです。(縦型棺桶が普通だった)。
地元であれば事が速く運ぶのでしょうが、伯父は東京で商売をしていたので、駆けつけたときはすでに死後硬直が進んでいたようで、遺体を棺桶に入れるときに、無理やり足を曲げるのを母は見ていて、かわいそうなようだったそうです。
当時は1950年代ですから土葬ですが、穴掘りに至るまでにもいろいろあるわけです。
他所からきて初めてその地に墓を持つというのは大変でした。家族は埋葬の組合に入っておく必要など考えてはいなかったようです。
一般的にいう組合は(自治体の班のことです)、埋葬の組合とは別ものです。こちらは葬式のときはお勝手番を手伝います。
祖父が亡くなったときお勝手番はやってもらえたようですが、農家は農家同士で組合を作っていたので、非農家は非農家で集まって組合を作ったようです。お勝手番は葬儀の事には関係せず、台所仕事です。
埋葬の組合はこれとは役目が違います。葬儀屋のする事とも違います。古くから行なわれてきた慣習で、それを墓番と呼んでました。穴番とも言います。
わたしは二度、墓番を経験しましたが、すでに平成の世になってからなので、土葬ではないし、かなり簡略化されているのではないかと思いますが、覚えている限りでは、以下のようなことをしました。
一度目はかろうとになっている場合で、家族が納骨をする前に墓へ行って、すぐに納骨できるように石室を空けておきました。石の蓋をどかしておくわけです。 バー ルを使えばテコの原理で簡単に開きます。半分ぐらい開くようにずらしておく感じでした。ようは石室に骨壷を入れられればいいわけです。
二度目は十五年前の事で、庭で作業をするのですが、お供えの台の四辺に、正方形の紙をずらして二つ折にしたものを糊で貼り付けます。この台が使い古したものらしくて、何度も張っては剥がしを繰り返したものでした。
細めの竹を近所の裏庭で切ってきて棒状にし、五十センチくらいのものを数本作ります。あらかじめ用意しておくのではなくて、直前に切ったものがいいようです。
台所で女性たちが作った団子を、竹の棒に串団子のように刺して、お供えの台に数本立てます。そのままだとぐらぐらするので、 縛って束ねます。そういうのを二つ作ったと思います。
屋内で坊様のお経が終わってから、墓番だけが先に寺へ行きました。この家の場合、墓はまだかろうとをしていなかったので、墓標を持って行き、土の上に立てました。線香をあげる場所なども作りました。
これより数年前に亡くなった連れ添いの方のときも火葬だったわけですが、遺骨はどうしたのかというと、骨壷のまま土に埋めたようで、これも土葬の一種だという人もいます。遺体を焼いたかどうかではなく、土に埋めたか石室に入れたかですね。
現在は斎場で葬儀を行うことが多くなり、自宅での葬式をしなくなってきたので、墓番がなくなったみたいです