昭和からの記憶の旅

わたしが実際に生まれ育った昭和。冬は火鉢が当たり前。子供たちはどんな遊びをしていたのか。アイスクリームが十円だった時代から現在までを振り返ります

第35回 菜種油の業者

 天ぷらは日本の代表的料理のひとつといわれています。スーパーの惣菜コーナーにひしめき、調理する専用の鍋や粉まで販売されている現在では、あるのが当たり前のようになっている食べ物です。テレビ放送などでは、芸能人が下町の店舗で気軽に買って、その場で食べてみせる光景なども目にします。しかし天ぷらが昔から庶民の食べ物だったわけではないようです。

 都市や街には田畑がないので、個人で食べ物を自給自足できませんが、商売が盛んなので、食というものは金を払って買うのが普通です。食材を買って調理するのはもちろんですが、飲食店が多数あるので、外食や出前で済ます利便性もあります。油で揚げてしまえば完結した、ひとつの料理になる天ぷらは合理的だったかもしれません。極端に表現すれば、食材と台所を運営する機関のようなものがあり、個人は経費を払えば食べるだけで済むというのが都市部の姿でしょう。

 しかし農村地帯は自給自足の習慣があり、飲食店がなかなか発展せず、外食する契機がなく、天ぷらは都市部ほど身近ではありませんでした。

 農村地帯では庭先でも野菜がとれますが、天ぷらにするのが日常的だったわけではありません。個人で天ぷらを揚げるとなれば当然、大量の油も個人で用意しなければならないので、気楽に「今夜は天ぷらにするか」などとは言えなかったでしょう。特別な大尽の家なら違ったのかもしれませんが。

 むかしは農家が採った菜種を油と交換する職種がありました。

 配給のあった頃は魚の油が配給されていたようで、いずれにしろ大量に配給されるわけではないので、天ぷらに使えませんが、もし天ぷらに使ったとしても臭うので、あまり美味しくなかったでしょう。

 その後、農家が採った菜種を油と交換する業者が地域へまわってくるようになり、菜種と油を一定の比率で、業者に利益がある比率ということですが、交換したということです。1950年代頃はそんなかんじだったようです。

 もともと農家は菜花を食べるために作っていましたが、おまえのところはどうだ、おまえのところもどうだというかんじで業者に言われて、油と交換するために作るようになったということです。

 大量に菜花を育てない限り、気楽に天ぷらに使えるほどの油は手に入りません。普通の農家が菜種を業者に渡したくらいでは、手に入る油の量はたかがしれてます。それでもこういったやりとりが普通におこなわれていたようです。油が貴重なものだったからでしょう。

 農家はみずから菜種を絞らなくても油が手に入り、業者は原料として菜種が手に入る。このような職種を賃下工などと言うらしいのですが、呼称はよく分からないです。農家が業者に渡した菜種を絞ってもらうというより、業者の持っている油と交換するのです。物々交換とは少し違う気もしますが、まあ似てるところもあるかと思います。

 菜種が五合で油が二合くらいの比率での交換だったそうです。菜種をたくさん収穫できれば、天ぷらができないわけでもなかったと思いますが、やたらに油は使えなかったでしょう。

 しかし田舎でも特別な日には天ぷらを揚げました。農村地帯は採れた作物を祝う風習があるので、天ぷらはそのとき揚げたようです。

 ある家が氏神の祭礼の日に天ぷらを揚げたとき、囲炉裏に吊り下げられた鍋がひっくり返って、中に入っている油を子供が被ってしまい、亡くなったということです。それ以後その家では二度と祭礼の日に天ぷらを揚げなかったそうです。昔の話ですが、冥福を祈りたいです。

 希少価値のある食べ物を神仏へお供えする習慣は現在でも広くおこなわれているかと思います。

 わたしの母はお彼岸やお盆で親族が集まる日には、毎年天ぷらを揚げ、仏壇に供えてから食します。若い頃は何も感じませんでしたが、油を普通に買える世の中になったのは案外最近のことなんだなと思ってしまいます。

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