第23回 墓番という慣習
祖父が亡くなったとき、真っ先に問題になったのは、どこに埋葬するかということでした。祖父は紀伊半島出身だったので、あちらに埋葬するのは遠くて無理だから、近場でなんとかするしかありませんでした。
幸いにして懇意にしていた方が地元のお寺に近しい家だったので、仲介してもらい、墓の敷地を買えました。竹薮だったところを伐採して敷地にしたようです。当時の物価を考えてみても、かなり安値だったようです。
次に家からお寺までどうやって遺体を運ぶのかということでした。歩いて五分くらいの距離ですが、当時は車がなかったし、リヤカーだって農家の家でなければ持ってません。
部屋で寝かせてある遺体を棺桶に入れて、棺おけごと運ぶのですから、大人の男が数人いなければ無理なわけです。まさか遺体だけを担いで持っていくわけにはいきませんから。
それに父は仕事の関係で長期出張が多くて、家には母と祖母しかいませんでした。わたしはまだ生まれてなかったし、伯父たちは全員近くには住んでませんでした。
生粋の地元の家であれば、組合の助けで自動的に事がすすむのですが、 ここでいう組合は自治体の班とは別もので、埋葬の組合です。うちはそれに入っていなかったので、規格外のような立場にありました。
結局個人的に懇意にしていた人たちの世話になったということです。リヤカーを貸してもらったり、運ぶのを手伝ってもらったりです。
それから棺桶に遺体を入れるのがまた一苦労で、寝かせてあったものを棺桶にいれるときはすでに死後硬直が進んでいるので、うまく入らないようです。(縦型棺桶が普通だった)。
地元であれば事が速く運ぶのでしょうが、伯父は東京で商売をしていたので、駆けつけたときはすでに死後硬直が進んでいたようで、遺体を棺桶に入れるときに、無理やり足を曲げるのを母は見ていて、かわいそうなようだったそうです。
当時は1950年代ですから土葬ですが、穴掘りに至るまでにもいろいろあるわけです。
他所からきて初めてその地に墓を持つというのは大変でした。家族は埋葬の組合に入っておく必要など考えてはいなかったようです。
一般的にいう組合は(自治体の班のことです)、埋葬の組合とは別ものです。こちらは葬式のときはお勝手番を手伝います。
祖父が亡くなったときお勝手番はやってもらえたようですが、農家は農家同士で組合を作っていたので、非農家は非農家で集まって組合を作ったようです。お勝手番は葬儀の事には関係せず、台所仕事です。
埋葬の組合はこれとは役目が違います。葬儀屋のする事とも違います。古くから行なわれてきた慣習で、それを墓番と呼んでました。穴番とも言います。
わたしは二度、墓番を経験しましたが、すでに平成の世になってからなので、土葬ではないし、かなり簡略化されているのではないかと思いますが、覚えている限りでは、以下のようなことをしました。
一度目はかろうとになっている場合で、家族が納骨をする前に墓へ行って、すぐに納骨できるように石室を空けておきました。石の蓋をどかしておくわけです。 バー ルを使えばテコの原理で簡単に開きます。半分ぐらい開くようにずらしておく感じでした。ようは石室に骨壷を入れられればいいわけです。
二度目は十五年前の事で、庭で作業をするのですが、お供えの台の四辺に、正方形の紙をずらして二つ折にしたものを糊で貼り付けます。この台が使い古したものらしくて、何度も張っては剥がしを繰り返したものでした。
細めの竹を近所の裏庭で切ってきて棒状にし、五十センチくらいのものを数本作ります。あらかじめ用意しておくのではなくて、直前に切ったものがいいようです。
台所で女性たちが作った団子を、竹の棒に串団子のように刺して、お供えの台に数本立てます。そのままだとぐらぐらするので、 縛って束ねます。そういうのを二つ作ったと思います。
屋内で坊様のお経が終わってから、墓番だけが先に寺へ行きました。この家の場合、墓はまだかろうとをしていなかったので、墓標を持って行き、土の上に立てました。線香をあげる場所なども作りました。
これより数年前に亡くなった連れ添いの方のときも火葬だったわけですが、遺骨はどうしたのかというと、骨壷のまま土に埋めたようで、これも土葬の一種だという人もいます。遺体を焼いたかどうかではなく、土に埋めたか石室に入れたかですね。
現在は斎場で葬儀を行うことが多くなり、自宅での葬式をしなくなってきたので、墓番がなくなったみたいです