第28回 二軒長屋
祖父の遺品。謄写版の紙だと思う。
わたしが六歳まで暮らしていたのは二軒長屋でした。ここは母の生家でもありました。かつてはこの付近には二軒長屋の棟が立ち並んでいたということです。
戦後になるまで、内務省の職員だった祖父の事務所がすぐ近くにあったので、母は子供の頃から遊びがてら出入りをし、仕事の様子を見ており、それによると図面をかいたり地区の測量をしたり、百葉箱で温度を測ったり、いろいろやっていたということです。
事務所の前には駅があり、裏には内務省の工場があり、そこで働く人たちのために建てられた二軒長屋でした。祖父母は派遣されてきた当初は、地元で世話をしてくれるの人の家に間借りしていて、二軒長屋ができるとそこへ移り、住居としていました。
結局そのまま居ついてしまい、もちろん母と母の兄と姉たちもここで生まれ育ち、戦後になって事務所と工場が廃棄された後も、そのまま二軒長屋が実家のようになってしまいました。やがて結婚した母が祖父母と暮らすことになって、わたしが六歳の頃まで住居として使っていました。
祖父の残したものは数十枚の測量図とこの二軒長屋の図である。
何かの手続きで役所へ提出するために書いたものらしい。
話が戻りますが、祖父は青写真を焼いていて、事務所にそういう一室があったようなんですが、母が見たところによると、機械の図面みたいだったそうです。
すぐ裏に工場があるのですから、機械の図面があってもおかしくないのですが、実際に何をつくっていたのかは分かりません。工場と事務所と駅が並んであったのですから、作ったものをどこかへ運んだと想像できますが、資料が残っていないので分かりません。
公務員なので守秘義務があり、戦中の文書は敗戦の折に処分してしまったのかもしれませんが、紙そのものが貴重だと思われていたようで、地元の人たちが欲しがったので、やってしまったものも多かったようです。不要になった青写真などはそれですべてなくなってしまったということです。
工場が閉鎖した後も、鉄くずが残っていたので、それを拾いに行った人たちが結構いたようです。結局お金にしたんでしょう。戦後はそんなかんじで始まったのだと思います。現在うっかりそういうことをすると逮捕されそうです。
孫としては、いい仕事してるね、と言いいたいものです。
戦後、祖父母はそのまま二軒長屋に住み続け、母が父と結婚して、ここへ入りました。
税金というかたちで家賃を払っていたのですが、しだいに建物が崩壊してきたので、わたしが生まれた頃はもう家賃も払う必要もなかったようです。
戦前は駅もあり、長屋の住人たちで賑やかだったそうですが、最後まで残ったのはうちの家族だけで、ほかの人たちはみな出て行ってしまったそうです。
昭和35年頃のわが家。当時ですでに築四十数年は経っている。
西側の部屋が写っているが、生活は東側でしていた。
この三年ほど前に祖父は亡くなっている。
わが家が引越してから(すぐ裏ですが)、二軒長屋は物置になり、この先二十年の余命を得ることになるのですが、今はもう跡形もありません。地所の変更が行なわれたことによるものです。今思うと、大げさですが、歴史の生き証人のような建物だったのだと気づかされます。