昭和からの記憶の旅

わたしが実際に生まれ育った昭和。冬は火鉢が当たり前。子供たちはどんな遊びをしていたのか。アイスクリームが十円だった時代から現在までを振り返ります

第22回 どこまでホントか民間療法

 母が子供の頃は、焼けどをしたときは、農家でムカデの油をもらってきて、それで治したのだそうです。ムカデを絞って油を出すのではありません。ムカデを油の入った容器に入れて殺すのだそうで、ムカデはそのまま入れたままで、その油が効いたということですが、昔はそれが普通だったようです。つまりムカデの油漬けです。

 薬局は市街まで行かないと無かったのですが、ちょっとした薬なら近所の店にあったようで、それでもムカデの油を使ったというのは、民間療法が信頼されていたからか、たんにお金を使いたくなかったからか、なんとも言えませんが。とりあえず自給自足の感じでした。

  もちろん重症ではダメだと思います。ふつう家庭で焼けどをしたといえば、お湯を沸かしてるときに熱湯がかかったという程度ですが、天ぷらをしてるときに油 をひっくりかえしてしまったなんてのは、下手をすると命にかかわります。実際に近所で昔そんな事があったようです。農家には油は案外あったようなのです。 菜の花を業者が引き取りにきて、油を絞ってもらうんだそうです。

 

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 十五年ほど前、東京の親戚の台所で、熱湯を手にかけてしまいまして、氷水で冷やしはじめたら常連客のお爺ちゃんが、馬の油が効くんだよと言って、ガソリンスタンドに行って、もらってきてくれま した。わたしは半信半疑だったのですが、あまりにも熱心に勧めてくるので、好意を無下にするわけにもいかず、馬の油を塗ったそのうえにビニールの手袋をし て、それで再び氷水で冷やしました。

 馬の油なんか塗ってかえって酷くなったらどうするか、ガソリンスタンドに馬の油が置いてあるというのもなんだか胡散臭いのではないか、と思いましたが、いずれにしろあんまり酷くはならないだろうからいいやと思いました。

 ところがです。それから一時間ぐらいしてから手の様子をみたところ、不思議なくらい何の痛みも感じませんでした。熱湯をかければ、いくら冷やしても多少はヒリヒリすると思うのですが、完璧に元のままでした。

 う~~すごい、馬の油、と感動したいところですが、氷水で一時間も冷やしたのが効いたんだとも思えるし、結局よく分かりませんが、酷くはならなかったんだからよかったです。

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  打ち身や捻挫には、小麦粉と卵の白身と酢とクチナシの実を練ったものを塗ったということです。

 おできには、『岩田膏』という軟膏を買ってきたということです。紫がかった茶色で臭みがあったということで、それでおできが治ったそうですが、調べても分かりませんでした。『たこの吸出し』というのとは別物みたいです。

 結局のところ何事も程度問題だと思います。 

第21回 小学生のシェイクスピア

 三月は卒業式の季節ですが、戦時中はどんな感じだったのか、地元は母親の実家なので、わたしも通った普通の小学校ですが、年度替わりには、学年ごとにお芝居をやったそうです。

 母が小学校二年生の終わりのときは、『裸のキューピット』という歌を歌いながら踊ったということですが、 『裸の人形 大目玉 ・・・』というような歌詞で、裸という言葉が出てくるので、みんなが踊るのを嫌がったそうで、本当に裸になるわけではなくても、言葉だけで恥ずかしかったわけで、しかし母はそういうことを気にしない性格なので、平気で踊ったそうです。

 三年生の終わりのときは、『赤い靴はいてた女の子』で、布を赤く染めたり、日の丸の旗を使ったりして、赤い靴を作ったということで、母はそのころはもう裁縫ができたので、自分で作ったそうです。

 ところでわたしの母は昭和七年の五月生まれなので、三年生に進級した年の十二月に対英米開戦がありました。つまり三年生の終わりである三月には太平洋戦争がすでに始まっていたわけです。

 このとき六年生が、リア王をやったというのです。リア王というのだからシェイクスピアなのでしょう。当時の母の記憶でも、王様とお姫様が出てきてどうのこうの・・・という感じだったということなので。衣装は適当な格好でやったようですが。

 母のすぐ上の姉が中二つ違いで、当時六年生だったので、母はこの事をよく覚えていたようです。

 この演目を、S先生という女性教師が熱心に推し進めたということです。彼女は市街の洋服店の娘さんで、ちょっとモダンな方だったそうで、シェイクスピアが好きだったのでしょう。

 しかし対英米戦が始まってまだ初期とはいえ、小学生の余興程度とはいえ、英国の芝居をするというのは問題があったというか、よくできたと思います。実際ほかの先生は困ったようでした。地元出身の先生は、自治体の人間関係やらの目が気になったと思います。

 S先生の、しがらみとかにとらわれない面が敬遠されたかもしれませんが、彼女の熱意と勇気でやってしまったようで、なんだかドラマみたいです。

 母が六年生のときの演目は、うってかわって清少納言だったそうです。わたしは枕草子をよく知りませんが、十五日までに雪がとけるとかとけないとか、そんな話だったと母が言ってました。

 母は年長の姉の着物を借りて無理して着たそうで、引きずって歩いたと言います。すると、S先生に、あなたの着物は綺麗だね、と言われて喜んだそうです。紫色で、松竹梅の柄の入ったものだったということで、たぶん汚しただろうから後で姉さんが怒ったかもしれないと言ってました。 

 それにしても母の口から、『リア王』という言葉が出たときは、驚きました。でも驚いてはいけませんね。かつては日英同盟があったのだから、シェイクスピアは案外一般化されていたのでしょう。

 

 赤矢印のすぐ下に見えるのは屋根であり、その手前が土手である。この土手の上に道があって、赤矢印の示す方向へ歩いていくと小学校があった。

 黄色い矢印の地点から土手へ上がる坂道と右方向への道が見える。

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 現在はごらんのとおり。なんか全然違う。土手はすでにない。車も結構走ってる。

道路はかつて土手の上だった道である。黄色い矢印の地点から土手へ上がる坂道は、今は歩道になっているあたりだろう。

 前の写真は右方向への道をもっと入ったところから撮影したようだが、現在は家が建っているので、この位置からでないと道路が見えない。

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 こんなにも違ってしまう今昔でした。

第20回 変わりゆく風景の今昔

今回は映像モードです。まずは、なんの関係もない模様から・・・・。 

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 下の写真が撮られたのは1956年頃である。画面右側に棒状のものが近接して三本立っていて、低い建物らしきものがあるのが分かるだろうか。子供の左手あたりにである。

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 道路は土である。まだ舗装されていない。

 さて次の写真は全然様子が違う。橋桁のようなものがあり、道も舗装されている。わかりにくいだろうが、左側の手前にいるのがわたしである。これは1963年か64年に撮影された。

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 右側の建物が大きく見えるのは、先ほどの写真よりも建物に近い位置で撮影したか、あるいはやや右側にレンズを向けたからだろう。三本の棒はなく、すでに撤去した後らしいが、短い棒が柵のようにずらっと並んでいるのが分かると思う。

 つまりこの二枚の写真は、年代は違うが同じ場所で撮影されたのである。

 次の写真は、ほとんど変わらない。前の写真と比べてどこが違うかというと、上の天井部分が完全に密閉されていることだ。さてこれは何か?

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 実はこれは首都高速道路なのだ。まだ作ったばかりなので、高速道路の下で平気で家族写真を撮っているなど、はた迷惑に思えるだろうが、よく見れば、右側に焼き芋だかリヤカーだかのごときものもあるし、まだ車があまり走ってなくて、気楽な時代だったようだ。

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  実を言うと、工事してる最中の写真もあるのだが、事情があって公開できなかったのは残念である。

 そこで代わりと言ってはなんだが、ボカシのし過ぎで心霊写真みたいになってしまったが、これが昔のわが家の屋内である。なかなか風情があると思うのだが、いかがなものだろうか。

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 現在はこんな感じ、右側の出っ張りが首都高速道路である。

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反対側からみると、このように首都高が左側になる。当たり前だが。

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 今回は口調まで変わってしまったようです。

第19回 最も古い記憶

 わたしの最も古い記憶は、トイレで母親にお尻を拭いてもらったことです。トイレで用を足した後、手を付いて四つん這いになって、お尻をちょこんと持ち上げると、母親が拭いてくれるのです。トイレに入る前から母親に誘導されて、ああして、こうしてと指図されて、何も考えずに言われるがままにするのです。

 恥ずかしさは全然ありませんでした。おそらくヨチヨチ歩きの頃だろうから、そんな感情はなさそうです。あのとき自分がどのように感じていたのかを思い出そうとしても、さっぱりわかりません。

 映像は見えます。家の北側に東西に沿って廊下があり、その向こうのドアを開けてトイレに入って・・・・。しかしどうしても、感情が思い出せないのです。まだ二本足で立てないときの写真を見ると、ちゃんと笑っています。だから感情のない幼児だったわけではなさそうです。あのときトイレに入った自分を思い出すたびに、心のなかに、「ここまで」という見えない幕があるような感じです。

 それと、なんとなくですが、自分が犬と同じような感覚でいたように思ってしまいます。犬になったことがないので、思い込みではありますが、感情がなかったのではなく、今ではもう分からなくなってしまった感情があったといったところでしょうか。

 

 昔の女の子は赤ん坊のいる近所の家に、おんぶさせてもらいに行ったそうで、そういうことが割りと普通の事で、複数の女の子が集まると、赤ん坊の取り合いになったということです。赤ん坊が可愛くてめずらしいので、みんなおんぶしたがったのだそうです。

 母も六歳の頃(昭和13年くらい)、赤ん坊をおんぶしたくて行ったそうなのですが、六歳の子供ではおんぶは無理だと言われたようで、すると母は、「おんぶがしたい」と駄々をこね、そこにいた大人が、おんぶさせてやんなよ、ちょっとぐらい大丈夫だよ、と口添えしてくれたということです。しかし結局母は赤ん坊が重くて、おんぶが上手くできなくて、座り込んでしまったということです。

 昔は赤ん坊をおんぶするというのは、ワンちゃんを抱くみたいな感覚だったのではないでしょうか。座敷犬なんてものは考えも及ばなかった時代なので、赤ん坊をペットに近い感覚で捉えていたような気がします。そんなふうに母に聞いてみたら、「だって他に娯楽なんてなかったんだからね」と言ってました。

 昔は赤ん坊を子犬なみに扱った、というと酷いことを言ってるように聞こえるかもしれませんが、現在はペットを家族としてみなすのが普通の世です。

 人間と犬猫等は違います。しかし家族は人間同士だけとは決まってません。我が家のイチジクの木はわたしが生まれる前からあるので、これはわたしの兄と言えそうです。

 

 先ほどの話で、母が言うには、あのときは手おんぶだった、ということです。背負って太股あたりを手で押さえるだけのものは、「手おんぶ」というようです。現在ふつうに、おんぶと言うのはこれですね。

 昔で言う、おんぶは、おしんが子守をしてるような姿、紐で赤ん坊をくくりつけたり、ねんねこ半纏を上に着たりする、ああいう支度でするのを、おんぶと言ったようです。

 

 

第18回 消えた食べ物

 先日ご近所さんと話していたら、「どどめを食べたいんだけど、今でもどこかにあるかな」と訊かれ、どどめって何だっけ?ああ桑の実だっけ、そういえば隣家の畑に桑の木が並んでいたなと思い出しました。

 でも現在は桑畑を見かけません。いつのまにか消えてました。考えてみれば、すでに近所で養蚕を営む農家がないのだから、当然でした。

 桑の葉は蚕(カイコ)のエサです。養蚕をやめたから、エサの桑の木もいらなくたったんですね。だから実のどどめもないわけです。木苺みたいな実でした。

 子供のわたしは繭(まゆ)が欲しくて、でも近所ではもう養蚕をやめていて、一軒だけ小屋にいくらか繭が残っていて、それをもらって遊んでました。

 繭の表面は、和紙を厚くしたような感じで、結構硬かったと思います。指先でつまんでも細い毛のようなものが立つだけで、これでは繭をほどいて糸を取り出すのは無理だと思って諦めました。

 もちろんそんな作り方はしません。繭を煮てから糸にするんですよね。無知でした。

 そういうわけで、幼少期には食べていたけど、いつからか食べなくなったものを考えてみました。

 まず思い浮かんだのが、梅干をタケノコの皮で挟んで、しゃぶるというものです。1960年代に物心がついていて、自然のある場所で育った人なら知っているのではないでしょうか。

 孟宗竹という大きな竹で、このタケノコの皮に梅干を挟んで、しゃぶるのですが、タケノコの皮の味と梅干の味が混ざって、やみつきになる味でした。なんとなく薬っぽい感じがしました。

 すぐ前の家の裏庭にケヤキの木と孟宗竹が生えていたので、その家の人にタケノコの皮をもらえました。

 いつのまにかこのタケノコ梅干をしゃぶることがなくなっていたのですが、たぶん前の家の人が孟宗竹を切ってしまって、タケノコの皮をもらえなくなったという事があると思います。

 昔はケヤキの木が高く売れたようで、農家の裏庭には太くて聳えるようなケヤキの木が植えられてました。でも業者があまり買い付けに来なくなったとかで、結局お金にならず伐採するには金がかかることになりました。

 孟宗竹も同様だったみたいで、お金になると思っていたけど実際そうでもなかったので切ってしまったというところです。竹ですから、ケヤキと違って切るのは大変ではありませんから。

 次にザクロです。ザクロの木はうちの庭にもありました。実はイクラみたいに粒が密集していて、それを噛んで中から出る汁を吸うのです。けっこう頻繁に食べていたように思いますが、柿や桃とは違い、いつのまにか食べなくなって、忘れてしまいました。

  たぶん60年代も末に近づくにしたがい、ジュースを日常的に飲めるようになったからだと思います。

 ザクロはわたしの記憶では、ちょっと酸っぱくて、味が薄 いというか、あまり甘くなくて、ちょっとトマトっぽくて、フルーティーではなかった、そんな感じでしょうか。

 それでも食べていたのは、水っぽかったので、ジュースの代わりになっていたのだと思います。でもファンタオレンジ を飲むようになると、ザクロより全然美味しかったのです

 公式記録では早く出回ったように書いてありますが、わたしが始めてファンタオレンジを知ったのは早くみても67年以降です。幼稚園のおやつの時間は粉末ジュースでした。それも特別な日でした。

 特に農村地帯では、イチゴや桃が畑にありましたから、金を払ってまでジュースを飲む必要はなかったと思います。

 東京で店をやっていた親戚の家の子は、ジュースを水みたいに飲んで育ったということなのですが(家業が忙しくて子供にあまりかまえなかったという理由もあったようです)、田舎育ちのわたしは幼稚園時期にジュースを飲んだ記憶はほとんどありません。買えないほど高価だったわけではないでしょうが、ジュースを飲む習慣がなかったんだと思います。

カルピスはまた別で、栄養剤みたいに扱われていたようで、店をやってた伯父が祖父母に飲ませるために我が家へ持ってきたと母が言ってました。

 つまりザクロはそんなに美味しくなかったということです。でもやっぱり食べてみたいけど、ザクロの実ってどこで売ってるんでしょうか。

 ところでタラの木の新芽が重宝されるようですが、うちのタラの木は秋になると実もなりますよ。ブルーベリーのさっぱりしたような味です。

第17回 60年代に影響を与えた音楽

 この曲はあの曲に似てるとかいう話がよくありますが、それを言い出すとキリがないし、バッハとモーツァルトの楽譜まで比べないと気がすまなくなるでしょう。

 音楽を単一のメロディーとして比較すれば、似ているのは当然目立ちます。だから歌と簡単な伴奏だけの曲は、ルーツがすぐに分かってしまうわけです。

 しかしどんな音楽にも必ずルーツがあります。ようはどんな新しい価値を追加できたかが評価されるのではないでしょうか。

 1965年のベンチャーズの来日は、翌年のビートルズの来日ほど話題に上りません。しかしギターサウンドに関してはビートルズよりもベンチャーズだったようです。当時日本ではライトゲージという柔らかい弦が製造されていなかったので、彼らの来日のおり、ギタリストの故N氏が楽屋まで行ってギターに触らせてもらったという話があります。

 ベンチャーズの曲は生ギター1本だけで演奏しても完成された楽曲に聴こえます。曲のなかにリズムがうまい具合に含まれるようにできていて、バックの演奏がなくても、ビート感があるように聴こえます。宴会では、クラシックの名曲よりもダイアモンドヘッドのほうが受けますよ。

 ウルトラQのテーマ音楽はベンチャーズの曲に似てはいません。しかし最初のイントロを聴いていると、どうしてもパイプラインが頭に浮びます。ベンチャーズに触発された面はあるように感じます。

 洋楽の影響を日本が受けても同じようにはならず、おどろおどろしくなる傾向があるように思います。でもそれがいいのです。ウルトラQの、あの異次元から聴こえてくるようなキーボードの音には、今でも魂が震えます。日本プログレの御先祖様とお呼びしたいです。ピンクフロイドのデビューより古いのですから。

 ジャングル大帝のオープニングで、「ジャ~ングル~の~お~くに」のところのリズムですが、ダン ダダダ ダン ダダダ ダン ダダダダダダダダダ。

 このリズムよく聴きますよね。

 ジャングル大帝の放送の二年後になりますが、クリーム(英国ロックの大御所)のホワイトルームのイントロもやはりこんな感じでした。クリームがジャングル大帝の真似をしたのでしょうか。そうではないでしょう。

 たぶんこれはラベルのボレロが元ネタです。当時ボレロは全世界的に影響があったのではないでしょうか。なぜこの当時なのかというと、ベジャールが1960年頃に振り付けをしたからで、それでこの曲がほんとうに一般に馴染むようになったというか、俗っぽく言えば、流行るようになったのだと思います。

 ラベル様がやってるんだから、これがカッコいいんだ、という感じですかね。

 1928年の作曲だから案外古いのですが、ベジャール以前の振り付けはあんまり話題にならないし、この曲自体まださして浸透してなかったのではないでしょうか。それにラベルって言っても、案外最近まではまだ、何に貼るの?という感じで、マニアックなものだったと思います。

 さらに一年後には水戸黄門のテーマ、二年後にはディープパープルのチャイルドインタイムと、よく知られている曲が続きます。この二曲が似てるというのはとても有名ですが、元ネタが同じということでしょう。

 音楽はいろいろ引き継いで発展していくんでしょうね。

第16回 昔の写真の由来を記録する

 わが家には終戦間近の家族写真が残っています。祖母と母と母の姉が二人、女ばかりの四人ですが、長女は一歳くらいの子供を抱いています。母が言うには、これは戦地に送るために撮ったそうです。

  当時どこの家でもこのような家族写真を撮ったそうです。小学校の校庭に地域の人が集まって、どういう関係の人か分かりませんが、ある人が撮ってくれたんだそうです。

 大きさは、キャッシュカードくらいで、長い方の辺が少し短いです。小さいと言えば小さいけれど、時代を考えれば、上出来でしょう。

  長女は夫が出征し、嫁ぎ先の義父が亡くなっていたので、実家に戻ってきていたということです。母と二番目の姉はワンピースを着ています。配給になった布 で、自分で縫ったと言ってます。ちょうちん袖というやつで、ウエスト上方から襟元までボタンも四つ付いてます。柄は青と黒の水玉模様だったそうです。

 祖母と一番上の姉はモンペです。大人ですから。

  なぜこのような写真がわが家に残っているのか、結局戦地へ送れなかったのか、長女の夫が無事帰還したので写真がこっちに戻ってきたのか、それとも二枚撮っ てもらったのか、すでに直接的な関係者が亡くなっているので分かりませんが、終戦間近でも写真撮影するだけの資材はあったようです。

 昔の写真が残っていないか、おじいちゃんに聞くとか、田舎とか実家のアルバムとか調べてみましょう。そしてパソコンでスキャンして保存する。今はそれが可能な時代ですから。

 それから写真の由来を聞いておく。これ大事ですよ。なんの写真か分からなくなる前に、記録しておきましょうね。

 それからもうひとつ。母が覚えてるには、農家の家では、軍から反物を預かっていて、とにかく沢山の反物が部屋にあったということです。

 軍と反物って、どういうふうに結びつくのかよく分からないのですが、反物に価値があったということはありそうです。その軍とは個人なのか、それとも組織なのか、今となっては知りようもありませんが、気になります。