第26回 一家『いっけ』は続く
『一家』と書いて、普通は、『いっか』と読みます。
清水一家の次郎長親分、というかんじですね。
父、母、兄がいて、自分がいる、一家団欒、というかんじですね。
しかし例えば、『山本家』は『やまもとか』ではなく、『やまもとけ』と読みます。
親族に関する言葉で、『いっけ』というものがあるのですが、ここでは『一家』と書いて、『いっけ』と読むことにします。『山本一家』なら、『やまもといっけ』です。
一家『いっけ』は方言ではありませんが、あまり浸透しなかった言葉みたいなので、現在各地でどのように使われているのかよく分かりません。以下は、わたしが住む近所での様子をいくらかまとめてみたものです。
『いっけ』は、『いっか』の訛った言い方ではありません。
『いっけ』は、『いっか』とは意味が全然違います。『いっけ』は家の集まりで、『いっか』は人の集まりです。
簡単に言えば、親族の家がいくつか集まって作ったグループです。
現在では、かなり年代を遡って何代も前から続いている家同士になっているでしょう。『いっけ』という仕組みが古いのですから。
一家『いっけ』は一族や一門の類語とされていますが、あまり知られていません。一族や一門のように、歴史本や映画のなかにも出てきません。しかし『いっけ』は、A子さんちは山本一家『いっけ』なんでしょう?というぐあいに日常会話で普通に使える言葉です。
うちの近所で『いっけ』というのは、古くから墓がある家同士の付き合いという印象があります。
『いっけ』としてまとまっている家が近所に五軒あるのですが、そのひとつの家の庭先に五軒の墓が並んでいます。「山本一家『いっけ』の墓はあそこだ」というかんじです。通り道から見えるので、子供のころ暗くなってから通ると、お化けが出るとかで、怖がったものでした。
過去のどこかの時点で、この五軒がグループを作り、『いっけ』として、そのまま続いているわけです。現代的感覚からすれば、親戚というにはかなり薄くなっているでしょうが、縁を切るにはかなりの決断が必要になると思います。
普通の親戚の場合は、あまりに遠縁になってくると、年会に呼ばれる声が掛からなくなる時がきて、そろそろ分かれて別々になりましょうという合図だと解釈するようです。母の知人で90歳近い人が、そのようなことがあったとかで、これはそろそろ縁切りってことかな、と話してるのを聞いたことがあります。縁切りは絶縁と違って、必ずしも悪い意味とは思われていないようです。そうでもしないと親族がどんどん増えて、親戚付き合いが不可能になるからでしょう。
しかしこの五軒の場合は、『いっけ』に所属する家の数が固定されているので、増えるということはありません。『いっけ』の墓は五つだけです。『いっけ』の付き合いが次々と増えて大変になるということはないです。
特に共同して何かをするというわけでもなく、普通に近所付き合いをしている程度です。『いっけ』としての義理を果たすことはあっても、それだけのことです。『いっけ』のそれぞれの家はすでに、それぞれの婚姻関係を経てきてるので、ふだん親戚関係といえばそれぞれ別々にあるわけです。
なぜ『いっけ』が忘れ去られること無く続いてきたかですが。
墓が同じ場所にあるので、強制力のようなものが働くのではないかと思います。隣の住人を無視できないのと同じです。
それから、『いっけ』の構成単位が家だということです。家は人と違って死にません。誰かが住んでさえいれば『いっけ』のひとつでありつづけます。
たいしたことをしなくても、今までどおりにしていれば、『いっけ』は増えもせず減りもせず、そのままなわけです。
こんなかんじでしょうか。
五軒それぞれの家から分かれた人たちにとっては、『いっけ』は本家の集まりかもしれません。とりあえず自分のルーツが形として残っているということだと思います。
他にも近所に『いっけ』とよばれてる家々はあります。そちらは地元の寺の檀家さんですが、そこの家のお祖母ちゃんが掃除をしていたら、掛け軸みたいな系図が出てきて、先祖に僧侶がいるので寺から出た家系だったと言ってました。たしかに同姓の家が寺に隣接して並んでいて、墓は本堂の近くにかたまってあります。
同姓の墓がかたまってあるのは、古ければよく見かける光景ですが、そういうものがすべて『いっけ』だというわけでもないようです。地元で『いっけ』でとおっている家はあっても、そのはっきりした理由はわかりません。
一族や一門は、氏、姓、名字などで区別されると思いますが、『いっけ』にもそういうはっきりした規則があるかどうかは分かりません。地域や宗派によっても違いはありそうだし、だから方言みたいなものではあるかもしれません。
とりあえずわたしの近所では墓という具体的なもので続いているということでした。