昭和からの記憶の旅

わたしが実際に生まれ育った昭和。冬は火鉢が当たり前。子供たちはどんな遊びをしていたのか。アイスクリームが十円だった時代から現在までを振り返ります

第2回  納豆と生卵で 朝食でした

 わたしが六歳まで住んでいたのは、元は長屋だったところです。そのころの食生活についてふれましょう。

 毎日必ず納豆と生卵を食べていたような気がします。当時納豆は藁で包んであって、豆腐屋さんが売りに廻ってきてました。納豆を食べない地方もあるようですが、それは無理もありません。わたしにも納豆のあの食感はやはり強烈でした。単独で食べたことはほとんどなかったと思います。納豆に生卵を入れ、醤油を少し垂らして、かき混ぜて食べてました。そうすることで、納豆のあの妙な香りが和らいで、食べやすくなるのです。

 でも卵の白身が気になりました。わたしは卵は好きでしたが、白身は嫌いでした。鼻水みたいで気持ち悪かったのです。実はいまだに、わずかながらですが納豆と卵の白身には抵抗を感じます。よく食べるし、美味しいんですけどね、とは思うのですが、何かが違うのです。

 卵は近所の養鶏農家へ、夕方になると母が出かけていき、わたしは一緒に付いて行ったものです。同じ地域の親しい間柄だったので、卵を買うだけではなくて、母は養鶏農家の人とお喋りしてから帰るのでした。

 母から聞いた話ですが、戦時中、母の四番目の兄が(つまりわたしの伯父ですが)、病気になったとき、この養鶏農家で鶏を一羽こしらえてもらったそうで、まだ子供だった母はそれを見ながら、「ああ食べたい、うまそうだ」と思って、病気の兄が羨ましかったそうです。そのくらい戦時中は食べ物がなくて、腹ペコだったということでしょう。

 農業系の学生なら、その光景を見慣れているかもしれませんが、現在はその光景を見る機会はないですよね。この養鶏農家とは別の家でのことですが、わたしは一度だけ、首を切られた鶏をさかさまにして血を出しているのを見たことがあります。

 冬は火鉢か練炭で餅を焼いて食べるのが楽しみでした。でも二月になると、餅がカビて、青緑の斑点が草もちみたいになってきます。なんだか綺麗になったと思ってましたが、母が包丁でカビを削っているのを見ていたので、それは食べるものではないと知っていたようです。それでわたしも一人でカビを削って餅を食べてました。二月になると餅は青くなるのだと思っていたのです。

 練炭は昨今では危険の代名詞みたいになっていますが、昔の家は隙間だらけだったし、個室もなかったので、中毒はあまり気にしなかったようです。それでも祖母が具合が悪くなったことがあったと母が言ってました。

 湯たんぽの代わりに、豆炭(まめたん)というのがありました。真っ赤に焼けた石炭みたいなものを入れて蓋を閉める、箱のような暖房器具です。湯たんぽと同じように布で厳重に包んで、布団の足元に入れて暖めるのです。

 ところがわたしはそれで焼けどしてしまい、厳重に包んだはずの布が解けてしまったからなのですが、朝になると足のむこうずねの真ん中あたりが、プクッと四センチぐらいの範囲で膨れていて、母が裁縫で使う小さなハサミでその膨らみをチョキンと切ると、水がドバァツと出てきて、それで終わりです。なにか塗ったか貼ったかはしたんでしょうけど。

 その後またしても焼けどしてしまいまして、いつのまにか豆炭の代わりに湯たんぽを使うようになってました。結局湯たんぽでも焼けどしました。二度あることは三度ありましたね。