昭和からの記憶の旅

わたしが実際に生まれ育った昭和。冬は火鉢が当たり前。子供たちはどんな遊びをしていたのか。アイスクリームが十円だった時代から現在までを振り返ります

第18回 消えた食べ物

 先日ご近所さんと話していたら、「どどめを食べたいんだけど、今でもどこかにあるかな」と訊かれ、どどめって何だっけ?ああ桑の実だっけ、そういえば隣家の畑に桑の木が並んでいたなと思い出しました。

 でも現在は桑畑を見かけません。いつのまにか消えてました。考えてみれば、すでに近所で養蚕を営む農家がないのだから、当然でした。

 桑の葉は蚕(カイコ)のエサです。養蚕をやめたから、エサの桑の木もいらなくたったんですね。だから実のどどめもないわけです。木苺みたいな実でした。

 子供のわたしは繭(まゆ)が欲しくて、でも近所ではもう養蚕をやめていて、一軒だけ小屋にいくらか繭が残っていて、それをもらって遊んでました。

 繭の表面は、和紙を厚くしたような感じで、結構硬かったと思います。指先でつまんでも細い毛のようなものが立つだけで、これでは繭をほどいて糸を取り出すのは無理だと思って諦めました。

 もちろんそんな作り方はしません。繭を煮てから糸にするんですよね。無知でした。

 そういうわけで、幼少期には食べていたけど、いつからか食べなくなったものを考えてみました。

 まず思い浮かんだのが、梅干をタケノコの皮で挟んで、しゃぶるというものです。1960年代に物心がついていて、自然のある場所で育った人なら知っているのではないでしょうか。

 孟宗竹という大きな竹で、このタケノコの皮に梅干を挟んで、しゃぶるのですが、タケノコの皮の味と梅干の味が混ざって、やみつきになる味でした。なんとなく薬っぽい感じがしました。

 すぐ前の家の裏庭にケヤキの木と孟宗竹が生えていたので、その家の人にタケノコの皮をもらえました。

 いつのまにかこのタケノコ梅干をしゃぶることがなくなっていたのですが、たぶん前の家の人が孟宗竹を切ってしまって、タケノコの皮をもらえなくなったという事があると思います。

 昔はケヤキの木が高く売れたようで、農家の裏庭には太くて聳えるようなケヤキの木が植えられてました。でも業者があまり買い付けに来なくなったとかで、結局お金にならず伐採するには金がかかることになりました。

 孟宗竹も同様だったみたいで、お金になると思っていたけど実際そうでもなかったので切ってしまったというところです。竹ですから、ケヤキと違って切るのは大変ではありませんから。

 次にザクロです。ザクロの木はうちの庭にもありました。実はイクラみたいに粒が密集していて、それを噛んで中から出る汁を吸うのです。けっこう頻繁に食べていたように思いますが、柿や桃とは違い、いつのまにか食べなくなって、忘れてしまいました。

  たぶん60年代も末に近づくにしたがい、ジュースを日常的に飲めるようになったからだと思います。

 ザクロはわたしの記憶では、ちょっと酸っぱくて、味が薄 いというか、あまり甘くなくて、ちょっとトマトっぽくて、フルーティーではなかった、そんな感じでしょうか。

 それでも食べていたのは、水っぽかったので、ジュースの代わりになっていたのだと思います。でもファンタオレンジ を飲むようになると、ザクロより全然美味しかったのです

 公式記録では早く出回ったように書いてありますが、わたしが始めてファンタオレンジを知ったのは早くみても67年以降です。幼稚園のおやつの時間は粉末ジュースでした。それも特別な日でした。

 特に農村地帯では、イチゴや桃が畑にありましたから、金を払ってまでジュースを飲む必要はなかったと思います。

 東京で店をやっていた親戚の家の子は、ジュースを水みたいに飲んで育ったということなのですが(家業が忙しくて子供にあまりかまえなかったという理由もあったようです)、田舎育ちのわたしは幼稚園時期にジュースを飲んだ記憶はほとんどありません。買えないほど高価だったわけではないでしょうが、ジュースを飲む習慣がなかったんだと思います。

カルピスはまた別で、栄養剤みたいに扱われていたようで、店をやってた伯父が祖父母に飲ませるために我が家へ持ってきたと母が言ってました。

 つまりザクロはそんなに美味しくなかったということです。でもやっぱり食べてみたいけど、ザクロの実ってどこで売ってるんでしょうか。

 ところでタラの木の新芽が重宝されるようですが、うちのタラの木は秋になると実もなりますよ。ブルーベリーのさっぱりしたような味です。