第10回 忘れてしまった古い知り合い
わたしが生まれる前からメリーは我が家にいました。父がどこかでもらってきたのだそうです。小さくて茶色い体はわたしと大きさがあまり変わらなかったので、ぜんぜん恐くありませんでした。まだわたしが犬と人間の区別がはっきりつかないときからメリーはいたので、家族の風景に溶け込んでいて、ペットだとか動物なんだとかいう意識はありませんでした。
わたしの父は運転免許を持っていなかったので、自転車に乗って、十五キロほど離れた場所まで行き、その帰りにメリーを自転車のカゴに入れて帰ってきたということです。むかしの道は舗装されていないデコボコの泥道でしたから、大変だったように思えますが、のんきで気の長い時代だったのです。
メリーを思い浮かべてみると、今でもあの茶色い体が足元に、妙に艶かしく蠢くような気がします。
外の犬小屋で飼っていたでしょう。座敷犬なんて想像もつきませんでしたから。冬は寒くて可哀想に思えますが、屋内も寒い時代だったのですから。
正直言って、わたしとメリーがどんなふうに接触していたのかは、よく思い出せません。犬小屋がどこにあったとか、頭に浮ばないのです。
でも鮮烈に記憶に残っていることがあります。
リヤカーに茣蓙を敷いて、メリーを乗せて、土手のある方角へ向かっていきます。やや薄暗かったような感じです。
近所のおじさんにリヤカーを引いてもらい、わたしは母とともに歩いて行きました。悲しいとは感じませんでした。こういうものなのだ、と納得していただけでした。幼なすぎたのかもしれません。なんとなく、以前に書いた畑と共通の何かを感じていたような気がします。
川につくと、おじさんが、板の上にメリーを乗せて水面に下ろしました。そのままゆっくりと流れ始めました。すでに動かなくなったメリーは役割を終えたのでした。そのときだけ、あたりがまだ日没前のように明るくなりました。
いま思うと、本当は板など無くて、メリーを川に沈めただけだったかもしれません。でもわたしの心の中では、あくまでも、メリーは川を流れて旅に出たのです。