第8回 スクールバスのある幼稚園なんて、かなり昔から普通だった
現在わたしの自宅のすぐ裏に保育園があります。しかしわたしの同級生でここに通った者はいません。当時はまだ開園していませんでした。
わたしの小学校の同級生で保育園出身者は少なかったです。たいていわたしの通っていたところか、スクールバスで送迎するところか、どちらかの幼稚園でした。あるいはどこにも行ってないかです。
わたしが通っていた幼稚園は路線バスで十五分ほど行ったところにある市街地でしたが、そこから八百メートルほど離れたところにはスクールバス付きの別の幼稚園がありました。もちろんスクールバスのあるほうは授業料が高かったでしょうが、一部の金持ちしかいけないわけではなく、わたしと同地区の同級生達もふつうに通っていました。この1960年代半ばにはすでにスクールバス付きの幼稚園はたいして特別なものではありませんでした。
小学生になってから幼稚園の話がでたとき、あいつはあっちだったとか言い合ったことはありましたが、それでグループに分かれることはありませんでした。保育園出身者もそうです。仲間はずれにされることはありませんでした。だって同じ地区(というか村ですね)で生まれたのですから、親同士が顔見知りだなんてザラだし、顔見知りでなくても姓と家の場所を言えば、どこの家の子か見当がつくわけです。
「あそこの家は誰々さんの実家だよ。そう、あそこの家の子なのかい」。こんな感じです。
地縁と血縁が絡み合って作用するので、意味のよく分からないグループはできません。予防注射みたいなものです。ほんとうに仲のいい子供同士がくっつくだけです。
ただ保育園出身者が、ちょっと変わった目で見られることは最初あったように思います。「へーっ、保育園なのか」って程度でしたが。どちらかというと珍しかったんですね。
「二年保育」「三年保育」という言い方をしてました。
「おれは二年保育だった」とか「あたしは三年保育だった」という具合です。保育園は三年間通えたということだったと思います。
わたしが小学校三年生のときは、地元に幼稚園が開園してまして、友達の弟はそこへ通いました。
わたしの自宅の裏の保育園も同じ頃できました。開園してからすでに45年は経っています。この場所は戦前は市の役所だったところで、長い間そのまま空き地になっていました。現在この地区には三つの保育園があります。