昭和からの記憶の旅

わたしが実際に生まれ育った昭和。冬は火鉢が当たり前。子供たちはどんな遊びをしていたのか。アイスクリームが十円だった時代から現在までを振り返ります

第13回  戦前の遺跡の残り方

  わたしの家のすぐ近くに戦前は駅がありました。母は小学生の頃、東京の親戚へお使いに行くのに、一人で行かされたそうです。電車に乗れば、車掌さんがいるので、心配なかったようです。

 隣駅の知り合いの家に遊びに行ったりして、案外身近に電車を使っていたということです。

 切符をなくしてしまったこともあったそうですが、車掌さんとは顔見知りなので大事にはならなかったようです。

 母はこの電車に乗って東京の劇場へ行ったこともあったそうで、そのときは親と一緒だったわけですが、太平洋戦争直前か直後か、微妙な時期です。

 駅の周囲は官有地で、役所があり、工場があったそうですが、そこで何を作っていたかははっきりしません。働いていた人たちはもうどこにいるのか分かりません。戦前のことですから、国のために必要なものを作っていたのかもしれません。

 戦後になると路線が変更されて、ここは完全に廃線となりましたが、かつて線路が敷かれていたところの一部が、今でも数百メートルほど農道みたいに残っています。わたしが子供の頃ここは電車道と呼ばれていました。

 駅だった場所の近くに、線路が通っていたところですが、煉瓦造りの台のようなものが、わたしの子供の頃にはありました。外国の景観のようで、印象的でした。

 あれは橋の欄干だったようです。橋といっても川ではなく、水路をまたぐ小さな橋で、その上を電車が走っていたのでしょう。すでに欄干は削り取られてしまっています。

 水路は今でも使われています。最近タヌキの子が落ちて鳴いて騒いでいました。

 欄干の痕跡がわずかに残っていますが、いずれ何だったのか分からなくなってしまうでしょう。