第21回 小学生のシェイクスピア
三月は卒業式の季節ですが、戦時中はどんな感じだったのか、地元は母親の実家なので、わたしも通った普通の小学校ですが、年度替わりには、学年ごとにお芝居をやったそうです。
母が小学校二年生の終わりのときは、『裸のキューピット』という歌を歌いながら踊ったということですが、 『裸の人形 大目玉 ・・・』というような歌詞で、裸という言葉が出てくるので、みんなが踊るのを嫌がったそうで、本当に裸になるわけではなくても、言葉だけで恥ずかしかったわけで、しかし母はそういうことを気にしない性格なので、平気で踊ったそうです。
三年生の終わりのときは、『赤い靴はいてた女の子』で、布を赤く染めたり、日の丸の旗を使ったりして、赤い靴を作ったということで、母はそのころはもう裁縫ができたので、自分で作ったそうです。
ところでわたしの母は昭和七年の五月生まれなので、三年生に進級した年の十二月に対英米開戦がありました。つまり三年生の終わりである三月には太平洋戦争がすでに始まっていたわけです。
このとき六年生が、リア王をやったというのです。リア王というのだからシェイクスピアなのでしょう。当時の母の記憶でも、王様とお姫様が出てきてどうのこうの・・・という感じだったということなので。衣装は適当な格好でやったようですが。
母のすぐ上の姉が中二つ違いで、当時六年生だったので、母はこの事をよく覚えていたようです。
この演目を、S先生という女性教師が熱心に推し進めたということです。彼女は市街の洋服店の娘さんで、ちょっとモダンな方だったそうで、シェイクスピアが好きだったのでしょう。
しかし対英米戦が始まってまだ初期とはいえ、小学生の余興程度とはいえ、英国の芝居をするというのは問題があったというか、よくできたと思います。実際ほかの先生は困ったようでした。地元出身の先生は、自治体の人間関係やらの目が気になったと思います。
S先生の、しがらみとかにとらわれない面が敬遠されたかもしれませんが、彼女の熱意と勇気でやってしまったようで、なんだかドラマみたいです。
母が六年生のときの演目は、うってかわって清少納言だったそうです。わたしは枕草子をよく知りませんが、十五日までに雪がとけるとかとけないとか、そんな話だったと母が言ってました。
母は年長の姉の着物を借りて無理して着たそうで、引きずって歩いたと言います。すると、S先生に、あなたの着物は綺麗だね、と言われて喜んだそうです。紫色で、松竹梅の柄の入ったものだったということで、たぶん汚しただろうから後で姉さんが怒ったかもしれないと言ってました。
それにしても母の口から、『リア王』という言葉が出たときは、驚きました。でも驚いてはいけませんね。かつては日英同盟があったのだから、シェイクスピアは案外一般化されていたのでしょう。
赤矢印のすぐ下に見えるのは屋根であり、その手前が土手である。この土手の上に道があって、赤矢印の示す方向へ歩いていくと小学校があった。
黄色い矢印の地点から土手へ上がる坂道と右方向への道が見える。
現在はごらんのとおり。なんか全然違う。土手はすでにない。車も結構走ってる。
道路はかつて土手の上だった道である。黄色い矢印の地点から土手へ上がる坂道は、今は歩道になっているあたりだろう。
前の写真は右方向への道をもっと入ったところから撮影したようだが、現在は家が建っているので、この位置からでないと道路が見えない。
こんなにも違ってしまう今昔でした。