第5回 チャームポイントは偽エクボ
祖父の代に現在の地に移ってきたので、田畑を持っていませんでした。このため戦中は食べ物を自給できなくて、大変だったようです。しかも祖父は他人に気前が良すぎて、ジャンジャンおごって家に帰る前には給料袋を空にしてしまうような人だったので、勤め人でありながら、お金が家に全然ないという状態になってしまい、近所の人まで困惑したようです。
母が小学校へ弁当を持っていくにも配給の芋なのですが、農家の同級生たちは弁当箱に餅をいっぱい詰めて、上に醤油が垂らしてあって、ストーブ(薪でしょうね)の上に弁当箱ごと乗せて暖めていたそうで、羨ましかったと言います。農家の人はなんとか食料を残そうとして、さまざまな努力をしたのでしょう。当時は供出がありましたから。
わが家でも小麦は手に入りやすかったので、母は酒のビンに小麦を入れ、棒で突付いて外皮をとり、生のまま口に入れて噛んでいると、やわらかくなって食べられたと言います。
冷害のひどい地域ではもっとずっと大変だったと思いますが、わたしの住む地域は冷害はそうでもなかったようなので、これでもマシなほうだったのでしょう。
母は言います、「ほんとに食べ物がなかったのに、よく(自分が)育ったもんだね」と。
そういう経験もあってか、戦中か戦後か微妙な時期ではっきりしませんが、わが家は河川敷に畑を開墾しました。誰に断わりを入れたわけではないのですが、特に誰の土地というわけではありませんし、まあ戦中戦後はそういう時代だったのでしょう。
わたしが幼少のころはまだ畑がありました。母はわたしを連れて、小さな川に架かる橋を渡り、それから土手を登って向こう側の河川敷へ降りるのですが、原っぱの中になんとなく広がる畑で、わたしはどう感じていたのか、思い出したいものです。
ある日の夕方、畑へ行くのに小川の橋を渡るとき、上から見下ろすと、小川の水面いっぱいに、巨大な貝のようなクラゲの頭のようなものが浮いていて、わたしはなぜか感銘を受けました。妙に綺麗だったのです。でも少しばかり恐れもしました。なんだか生きてるみたいに生々しかったのです。何かのひょうしで泡が溜まったものだったと思います。
畑へ行って、帰り道、再び小川の橋を渡ったときには、もう泡は崩れていて、平べったくなり、やがてすべて流されて消えてしまうだろう事が分かりました。あれは怖いものではなかったのだとわたしは安心しましたが、もったいないとも思いました。もっとじっと長いあいだ見ていたかった。一期一会はすごく大切です。
畑はわたしが幼稚園のころに立ち退きました。そのとき「立ち退き料」を祖母が役所から受け取りまして(そういうものなのでしょう)、それで祖母はわたしの兄に自転車を買ってやったということです。
ある日のこと兄の同級生の子供たちが集まって、坂道を自転車でカーブしながら降りていく遊びをしていて、まだ小学生ではなかったわたしも挑戦しました。小さな坂だったから、まあ大丈夫だろうとみんな思っていたのでしょう。かっこよく左カーブを決めて坂道を降りていくまではよかったのですが、途中でタイヤが滑って(砂利道でした)、転んでしまい、左のほっぺたに何かが刺さりました。道脇に生えていた木の根っこがちょこっと突き出ていたのでした。
幸い深い傷ではなかったので、医者には行かなかったと思います。わたしが母のそばで泣いていると、隣の家のおじさんたちが様子を見にきましたが、その場はあまり慌ててはいませんでした。心配は心配だったでしょうけれどね。
そのときの傷が1センチほど残り、笑うとエクボみたいに凹むようになり、なぜかそれがわたしのチャームポイントになったのでした。